大会ニュースレター

大会実行委員、障害当事者、障害者を支える方からのメッセージをご紹介します。

 

 

ニュースレターNo.4

<障害当事者の声~> 「出会い」
 皆さま、こんにちは。私は横浜市金沢区にあるカトリック金沢教会の信者です。私は網膜色素変性症という病気による中途視覚障害者(弱視)で、視野の中心の狭い範囲しか見えず、視力も低いです。外を歩く時は白杖を使っています。この白杖を持つはことにはじめはとても抵抗がありました。しかし白杖を持ち始めてからは、多くの人に出会い、助けられ、友を得、世界が広がりました。先日ある外国人の神父さまが「あなたの白杖は羊飼いの杖ですよ」とおっしゃいました。私の視覚障害もきっと何かの意味があるのだと思います。
 私は2013年の春、カトリック教会に出会いました。会社生活に疲れていたとき、ホームページを見て教会に行きました。初めてのミサは新鮮で、お祈りや聖歌や教会の空気がとても心地よく感じました。そして何より教会の人は皆あたたかく、私は教会に惹かれました。その後2014年の春に受洗しました。
私は実は教会では何一つ困ることがありません。いつも誰かが助けてくださるからです。そして仕事のように「頑張る」必要もありません。皆、私とあたたかく接してくださり、握手してくださいます。そうした中で、私は「ただいるだけ」で周りの人を幸せにできることを知りました。そしてそれは教会の中だけではなく、どこでもそうなのだと今では思います。私は、マザーテレサがおっしゃるように「あなたに出会った人が誰でも前よりももっと気持ちよく明るくなって帰ることができるような」人になりたいと思っています。
 金沢教会では2016年10月に「手話でささげるミサ」が開催されました。神父さまと信徒全員で、約1年かけて「主の祈り」などの手話を覚え、当日は横浜教区聴覚障害者の会の皆さまをお招きして、一緒に手話でミサをささげました。このときに声を掛けて頂いたことがきっかけで、私はカ障連大会実行委員会に入らせて頂きました。実行委員会では私はいつも支えてくれている友達と視覚障害者サポートを担当しています。私一人で出来ることは何もありませんが、仲間と一緒であれば私も力になれていることを感じています。
 大会当日も、きっとたくさんの出会いがあると思います。その出会いの一つ一つには意味があり、神様の計らいがあることでしょう。皆さまとお会いするのを楽しみにしています。

 

<山手教会チャリティコンサート>
4月15日、山手教会聖堂で、今大会のためのチャリティコンサートが開かれました。演奏者はパリ エルサレム会のダミアン原田隆文修道士、楽器は弦楽器シターと水琴窟のような音色の打楽器「波紋音」、琴、パイプオルガンというバラエティに富んだコンサートでした。120本の弦から流れ出るシターの音色は透明でやわらかく、いつしか心に安らぎと静寂がもたらされます。
後半のパイプオルガンは、切なく美しい曲、鳥の鳴き声のような楽しい曲、天が開けるような壮麗な曲…と様々に心に響くのでした。曲の合間には、ブラザー    
がヨーロッパにいらした時のお話もたくさん盛り込まれ、窓から見上げるアルハンブラ宮殿やモンサンミシェルの典礼、1100年に建てられた断崖絶壁の上にある修道院などに、思いを馳せながら聴き入りました。
私は視覚に障害のあるお友達と行ったのですが、終了後にブラザーは彼に波紋音を叩かせて下さり、「僕も片目は見えないし、もう片方もすごく悪い。でも大丈夫!頑張ろうね。」と明るく声をかけて下さいました。
朝は嵐だったけれど、帰り道は穏やかな快晴に。7月のコンサートも楽しみです。

<キャラバン報告> 枝の主日に戸塚教会を訪問させていただきました!
前カ障連協力司祭の中谷神父様が主任司祭である戸塚教会を3月25日に訪問、枝の主日ミサに参加させていただきました。共同祈願では神父様による横浜全国大会の紹介とお祈りをいただきました。一緒に訪問させていただいた保土ヶ谷教会の手作りの美しいロザリオ販売は多くの信徒で賑わいました。また大会PRチラシをお渡しすると、大会参加の希望や協力の意向や内容の問い合わせをいただき、横浜全国大会を身近に感じていただけたことに感謝しました。
中谷神父様、戸塚教会の皆様、ありがとうございました!

 

ニュースレターNo.3

「私の夢~障害当事者の声~」
私の故郷は長崎ですが、生まれは横浜です。小さい時から父に連れられて山手教会に行きましたが、全く音が聞こえないので何もわからず、それでも我慢して通いました。現在は、教区聴覚障害者の会では、いろいろな教会を訪問してミサに手話通訳をつけることを広めて、教区の行事には手話通訳がつくようになっています。手話のできる神父様も少しですが増えていますが、いつかは、神父様と個人的な話やゆるしの秘跡を手話でできるようになればというのが夢です。

聴覚障害というのは情報障害であって、外に出ている時に、何かが起こっても何もわからず、駅員や警察官に聞いても緊急の場合は、筆記などしてもらえないし、また3.11のような災害が起こった時、停電してニュースを見られず、避難が必要かどうかもわからず、避難場所に行っても現在どこがどのような状況になっているのか、知人に連絡するにはどうすればいいのか、どこに救援物質があるのか、いつ提供があるのかなどは、メガホンで怒鳴っても、避難所に手話通訳がいない限り、何もわかりません。東北の聴覚障害者が、避難警告がわからず津波に流された話をずっと後になって知りました。避難所には通訳が来られない時のために、ホワイトボードを置いて、お知らせ、現況などを書いてくれる人が必要です、教会が避難所になった時を考えて必ずホワイトボードとペンを置いてほしいです。避難所はザワザワするので、メガホンより書いた方が正確に他の人にも広く伝わると思います。

<ご紹介> 映画 『The Greatest Showman グレイテスト・ショーマン』を観ました!
ご覧になられた方々もいらっしゃると思いますが、登場人物から、「共に生きる」喜びが伝わってきて、心に響いた映画でした。
サーカスといえば昔は偏見があり上流社会では見下ろされていて、しかもこのサーカス団はユニークな大男、小人、LGBT、全身刺青、巨漢女性、全身毛だらけという日陰に生きて来た人たちの集まり。周囲の不理解から大事件が勃発し、困難の降りかかる中でも、サーカスを楽しんでくれた観客の喝采から、団員は自分に自信を持ち、共に生きながら劇場を再建していく、という19世紀アメリカで実在の興行師のストーリーです。

<キャラバン報告> 二宮教会を訪問させていただきました!
今までいくつかの教会を訪問させていただき、福祉部の方々と懇談をしました。今号では、二宮教会の懇談での様々な声や話題の一部を紹介します。
・聴覚障害など外見ではわかりづらいので対応が難しい。
・共用のアシストフォンをミサ中に貸し出し。
・障害を持つことを恥ずかしく感じて、引きこもってしまう。
・子供の障害について、親がよく理解できていないこともある。
・発達障害のケース等、様々なケースがあること等、知らないことが多いと気づかされ、よく知る必要があると全員が認識。
・視覚・聴覚障害の二つが同時の場合の難しさ(精神的にも支えが大事)。
・障害者ではないが、子供の養育施設の設置に周辺住民の反対が懸念されている。等々。
教会の中でもこのような話をする機会はあまりないとのことでした。
自分の知ることから分かち合うことで、各自の想いを共有する機会となりました。訪問先の教会で「互いの弱さを認め、共に生きよう」のテーマを受け止める一つのきっかけとなり、今後の広がりの可能性を感じました。
二宮教会の皆様、ありがとうございました!

 

ニュースレターNo.2

「互いの弱さを認めあい、共に生きる」こと(大会実行委員より)

カ障連では昨年全国の教会に向けて教会における障害者と、障害者への合理的な配慮の把握を目的としたアンケートを実施しました。全国の小教区の約1/3から回答があるなかで、カ障連全国大会が前回、前々回に行われた、札幌教区、名古屋教区は回答率が70%超と他の教区と比較して突出して高く、大会へのかかわりを通じて関心が高くなっていると思われます。横浜教区でも全国大会に向けた準備や様々な取り組みを通じて、障害を持つ方、寄り添う方への関心が高くなり、大会のテーマである「互いの弱さを認め合い、共に生きる」ことが様々なレベルで広がることを願っています。

実行委員会では大会に向けた取り組みを企画しておりますが、各地区・小教区でも地域の事情に合わせた取り組みがなされることが望まれます。取り組みを進める上での助けとして、皆さんの地区・小教区ですでに行われている取り組みまたはこれから始めようとしている取り組みについて共有したいと考えています。是非、皆さんの地区・小教区での「障害を持つ方を知る」、「障害を知る」、「障害を持つ方と寄り添う方の想いを知る」、「(ミサへの完全参加を含めた)互いの弱さを認め合い、共に生きる」取り組みについてお知らせください。神奈川第六地区の茅ケ崎教会では昨年3回シリーズで障害者とのかかわり、当事者研究についてセミナーを開催しました。また神奈川第三地区では大会に向けた地区共通の祈りを大会まで主日のミサ前に唱えることを始めようとしています。
障害を持つ方を知ることも難しいかもしれません。障害を持つ方が安心して行くことができる共同体になっているでしょうか。障害を持つ方を知っていても、それがどのようなものかよく知らないこともあると思います。障害を持つ方、介助されている方の想いを受け止めるにはどうすればよいのでしょうか。「互いの弱さを認め合い、共に生きる」とは具体的にどういうことなのでしょうか。

自分の事になりますが、最近、聴覚障害者とのやり取りを通じて、視覚や聴覚の障害がなくても、ぬくもりを求める人が“見えていない”、様々な形で発せられる声が“聞こえていない”非力な自分に気付きました。自分ひとりでは難しいかもしれませんが、まず半歩だけ前に踏み出し、周りの人と耳をそっとすまして、じっと見て、かすかに聞こえてきたこと、見えてきたことをゆっくり分かち合い、そこに働く聖霊を求めることから始めてみたいと思います。